ライフサイエンスを何故行うのか,それは個人的な情動だと思う。肉体的,生理的欲求,に近い感じだろうか。
それを如何に,国民が納得できるかたちに,変換していくのかが,デフェンスする側の力量だと思う。
感染症のライフサイエンスのアウトプットとして「感染症の撲滅」がある。ライフサイエンスに対しての予算削減は,人類の死活問題に焦点を当てて,優先事項を決定することが可能である。そしてそれは,国民の理解を得やすいかもしれない。しかしそういう動きになってしまうと,大いに困ってしまう。私の例,「感染症」を例にあげると,
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現在,再興感染症としても危惧されている百日咳を制御するために研究を行っています。
百日咳にはワクチンが有効で,その感染制御に役立っています。しかし,我が国や欧米の国々では,ワクチン接種率が高いにも関わらず,患者数が増加しつつあるのが現状であります。 新たなワクチン抗原(新規病原因子)を同定し,それらの知見を感染制御(ワクチン開発)に応用することが,研究の目的であります。
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まあ,このようなディフェンスが一般論として,展開可能なわけだ。しかし,「死活問題」まで,話を落とされると,いや絞られると,当然,「百日咳の研究」より「結核の撲滅」のほうが優先順位が高いのである。だから,百日咳よりも結核の研究をすべきだという論理は,人類の死活問題的には正しい。また,実際に多くの人々が救われるはずだ。そして,結核菌を完全に撲滅する手法を考案したら,歴史に名を残すかもしれない。
今まで,対岸の火事として「事業仕分け」を見てきたが,ライフサイエンス領域にまで,この話が及んできた。感染症を具体的な数字で換算するのは,ある意味,簡単である。WHOの資料を見て,あるいは感染症情報センターの資料を見て,世界で,あるいは我が国で,人々がどんな感染症で亡くなっているかを抽出することが可能である。そして,科研費をよりシビアに執行したいのなら,感染症死亡率トップ10の研究のみを国が推進すれば良い。多くの国民が納得できるアイディアかもしれない。そして,税金は今より有効に使われるかも知れない。
しかし,そこには,我々の「どうしてもこれをやりたい」という情動は含まれない。
私は「鈴木信太郎」の絵が好きだ。しかし誰かが,こう言ったとしよう。
「いや,ピカソのほうが資産価値があるから,君はピカソの絵を好きになるべきだ」と。。。
資産として残すのなら,もちろん,絶対的に,ピカソを選択すべきだ。
しかし,どらが好きかと言われると,私は鈴木信太郎と答える。
どちらが,好きか。
どちらを,やりたいか。どちらを,やりたくないか。
個人的な情動を数字に換算し,ディフェンスする作業も,ときとして重要であろう。しかし,ライフサイエンスの多様性をせばめることは,特に感染症について言えば,将来的に死亡率を上げてしまうことになるかもしれない。
「その将来的にとは,いつなんですか」「その根拠はどこにあるのですか」
そういったことを激しく,追求され,立ちすくんでいる自分がみえてしまう。もちろん無駄な予算削減には大賛成である。しかし,サイエンスに多様性がなかったのなら,それは非常につまらないものに,なっていただろう。野沢屋のチャーハンはおいしいが,ラーメンも餃子もあるから行くのであって,もし,チャーハンだけしかなかったら,本日の晩飯を野沢屋で食べなかったはずだ。
ライフサイエンスに対して,今後,もっと突っ込んだ仕分けがなされるかもしれない。そうなったときに,子供たちの,これからサイエンスをはじめる若い人たちの希望を奪うような仕分けであってはならないと思う。効率を優先するあまりに,ライフサイエンスの多様性に影を落とすことがあっては,ならないと思う。