誤解を恐れずにいうと,教育には限界がある。ヒトは指導されて育つものではなく,自発的に開花して育っていく,ものだ。私は肥やしのような存在で,それ以上の存在にはなれない。「○○先生のご指導のおかげでここまできました」とか耳にするが,それはウソだ。あくまで自分の意志でそこまでたどり着いたに過ぎない。他人を育てることは,できない。
研究の思想・自分の熱意をインスパイアーすることは可能であると信じている。しかし,そこにも感受性という壁が立ち塞がる。感受性,それは天性に近いものだと思う。幼少期にどれだけ親が伸ばせるのか?そこにかかっている。難しい試験を突破して,皆,ここにいるけれども,それは学力を保証しているものであって,筆記試験で感受性を計ることはできない。感受性がなければ,よりよい研究はできない。言い換えれば,論文をどんなに読んでも,また,机上の勉強がいくらできても研究力は保証されない。一流と二流の境目は,感受性にかかっている。自分の行っている研究が感染現象のどの部分を解明しようとしているのか,感受性をたくましくて,ありありと掴み取る。眼に見えない事象に思いを馳せる。それは感受性によるものだ。研究のセンスも感受性によるものだ。
感受性は天性に近い。しかし感受性も非常な努力を積み重ねることで,少しずつ拡張していくことは可能であると思う。
教育には限界があるが,自分で伸びようとする意思,には限界がない。
自分でハードルの高さを少しずつ高くしていく。
自分の限界を少しずつ高めていくことは,可能だ。