このへんから留学の話になります。これから留学を考えている方にオススメします。
3. 1995-1998: カナダ留学
転写制御の研究で学んだことは,病原細菌は常に病原因子を産生しているのではなく,ある決められたタイミングで,複数の病原因子を同調して産生することである。例えばヒトに感染する病原細菌の多くは,ヒト体温に近い37度で病原因子を産生し,それ以下でもそれ以上でも産生しない。一方,同じ種に属する病原細菌でも,宿主が変われば病原因子発現における温度域も変化する。例えばウサギに感染するある種の病原細菌は,ウサギの体温に近い40度付近で病原因子を産生し,ヒトの体温付近ではまったく産生しない。
このように病原因子発現の温度域は,病原細菌の宿主特異性を解く一つの答えにもなっている。転写制御の研究ではグローバルな病原因子の振る舞いを学ぶことができたが,感染の最前線にある現象を具体的に理解したかった。すなわち,病原因子と相互作用する宿主側因子を同定することで,感染に関与する宿主側因子を分子レベルで明らかにしたかったのである。
当時,日本においてもそのような研究は行われていたが,研究者層と言えるほどの発展を見せていなかった。それならば海外のトップレベルの研究機関に赴き,研究のノウハウを一から学んだほうが手っ取り早いのではないかと思い留学を決意した。そこで,病原因子と宿主側因子の相互作用解析を精力的にこなしていた2人の研究者に的を絞って留学計画を立てた。
一人はJorge Galán博士(現Yale大学教授)で,もう一人はBrett Finlay博士であった。両博士は,今では細菌学の権威となっており,私の研究者評価は間違っていなかったことになる。妻も同行するので,最終的には治安が良いカナダを選択し,Finlay博士のラボがあるブリティッシュ・コロンビア大学に焦点を絞った。
Finlay博士はスタンフォード大学のStanley Falkow博士のもとで学位を取得後,生まれ故郷のカナダに戻り,研究の拠点を構えたばかりであった。彼は私より2つ年上で,引退間際の大御所のお世話になるよりは,身近なメンターであり続けるような人物のほうが自分にとってふさわしいと考えた。
北里研究所の先輩からは「指導者としては若すぎる」という批判を頂いていたが,自分の直感を信じることにした。そこでFinlay博士に手紙を送り(当時,E-mailは限られた機関でしか稼働していなかった),じっと待つことにした。ようやくFinlay博士から返事があって,米国微生物学会で会おうという短い内容が添えられていた。
微生物学会でてっきり彼からインタビューを受けるものだと思い,緊張の連続で,会場があったラスベガスに乗り込んだが,力強く握手された後にOKと言われ,10秒ぐらいで彼は去ってしまった。
上原記念生命科学財団のフェローシップを獲得していたこともあり,彼としては私の能力がいまひとつでも失うものはあまりなかったのであろう。彼の唐突な感じは私を不安にさせたが,カナダに行くしかないと勝手に決め込んでいた。
1995年4月16日に妻と私はバンクーバー国際空港に降り立ち,そこでタクシーを捕まえて,ブリティッシュ・コロンビア大学のドミトリーに一時的に身を寄せた。
それから1998年3月19日までの4年間をカナダで過ごすことになった。