【プロローグ】
当時の学生の大半がそうであったように,就職は活動して内定を得るものではなく,所属研究室の指導教官の推薦に依存しているところが大きかった。 学生時代に所属していた研究室の指導教官は大村智先生で,当時,北里研究所の副所長を兼任されていた。私は大村先生の推薦で北里研究所を受けることになった。面接試験の会場で理事から,「現在,興味のあることは何ですか」との質問があり,研究のことについて一気にまくしたてたが,彼が聞きたかったのは趣味とか時事問題とかそういった事項についてであった。それでも何とか面接試験にパスして,日本の細菌学発祥の地,北里研究所で修士卒の研究者として働くことになった。
北里研究所はワクチンも製造しており,最初に与えられたテーマは,酵母を宿主とする発現ベクターの開発であった。 細胞内で自己複製が可能な環状のDNAはプラスミドと呼ばれており,そのなかでも外来タンパク質の産生に特化したものは,発現ベクターと定義されている。私の研究テーマをもう少し詳しく説明すると,酵母内でB型肝炎ウイルスの表面抗原の産生を可能とする発現ベクターの開発であった。 当時,B型肝炎ワクチンの製造は,肝炎に感染した患者血漿からウイルスの表面抗原を精製して製造していた。大量調製が困難であることと,バイオハザードの問題から,多くの企業が肝炎ワクチン製造の新たな基盤技術の確立にしのぎを削っていた。
酵母は高等真核細胞と多くの点で共通しており,宿主細胞内で修飾を受けるウイルス表面抗原などの大量精製に適していた。発現ベクターは外来遺伝子を効率よく発現させるために,プロモーターと呼ばれるRNAポリメラーゼの結合領域に改良を加えたり,mRNAの安定性を保つような工夫がなされている。私はmRNAの安定性に影響を及ぼす3’末端生成の仕組みについて,興味を持つようになった。高等真核生物や酵母では長い前駆体RNAが合成されたあとに3’末端側の特異的な部位で切断され,切断部位にポリAが付加されることでmRNAの3’末端が生成する。酵母においてRNA切断とその後に起きるポリA付加に必要な配列は26塩基内に存在することを見いだし,深沢俊夫先生(現慶應大学医学部名誉教授)のご指導のもとで,EMBO Journalという雑誌に投稿した。これら一連の研究で博士号を取得したが,研究者人生が順風満帆であったのなら,今回の 「細菌学の特別講義」はなかったと思う。
少々前書きが長くなったが,ここ十数年の間に細菌学におけるパラダイムシフトが起きたことは,事実である。パラダイムシフトの中心にあったのは,III型分泌装置とそれによって宿主に移行するエフェクターの発見である(少々断定的ですがご勘弁を)。この特殊な分泌装置の発見は,研究領域にも大きな影響を与えながら病原因子論の根幹を塗りかえていった。赤痢菌やサルモネラの宿主細胞への侵入機構は長らく不明であったが,ここ十数年のエフェクター研究の進展により解明された。私の研究もこのようなパラダイムシフトの波に呑まれながら,なんとか波間を漂っているのが現状である。
これから解説していく「細菌学の特別講義」では,細菌学の歴史について論ずるつもりはない。ここ十数年の間に起きた病原因子論の大きな移り変わりのなかで,細菌学者は何を掴むことができたのかを,いくつかの連載にわけて紡いでいきたいと思う。たまたま私は,細菌学のパラダイムシフトがおきる直前にこの領域に足を踏み入れ,留学時代には分子細胞生物学的な手法で感染現象を解明していくアプローチの重要性を痛感した。
極めて個人的な視点から,細菌学の領域で何が起きたのかを,少し時間を遡って時系列的に述べていきたい。(二限目に続く)
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注記:関東化学に掲載されたものに加筆訂正しました。