14. ボルチモアからの撤退
私はどのようにボルチモアから引き揚げたのか,今となってはその記憶も定かではない。
ただ電車に揺られ,どこかの駅に止めてあった錆びついたコンテナ列車を眺めながら「もう二度とこの土地には来ることはない」と思ったのである。
バンクーバー国際空港に降り立つと,久しぶりの妻が,そこにいた。空港から妻が運転する車で,四条 (4th streetにあった)という寿司屋に直行した。ボルチモア滞在の2ヶ月間,酒は浴びるほど飲んだが,日本食は一度も食べていなかった。寿司を食べながら,問題は山積しているものの,治安の悪いボルチモアから生きて帰れたことに感謝した。
翌日,憂鬱な気持ちで教授室のドアをノックした。ボルチモア行きは1ヶ月という期間をボスから言い渡されていたが,それを振り切って2ヶ月滞在した理由をボスに説明しなければならなかった。
決定的なのは,ボルチモアから分与を受けた菌株は,ウサギに投与しても何ら病原性を示さないことであった。ボルチモアでの2ヶ月間の実験結果は,今まで作製した変異株を全部捨てて,再度,新たな菌株で変異株を作製することを意味していた。しかしそれ以外に選択肢はなかった。これについてはボスも了承してくれて,何とか研究を継続することができた。
問題はウサギに感染する腸管病原性大腸菌をどうやって選択するのかについてであった。文献を調べた結果,ウサギの腸管病原性大腸菌の研究は,ヨーロッパでさかんであることがわかった。私はいくつかの研究機関に手紙を送り,最終的にベルギーの研究機関から腸管病原性大腸菌を入手した。ボルチモアで習得した感染実験系を立ち上げ,ベルギーより分与された菌株の病原性を確認したところ,ウサギに下痢を惹起したのでこれを親株として変異株を作製した。
結論から述べると私の研究はうまくいって,III型分泌装置が腸管病原性大腸菌の下痢発症に関与することを,はじめて明らかにすることができた。この研究内容を,私の領域では権威がある J. Exp. Med. に投稿することができた。
どんな雑誌に出そうか悩んでいた時に,となりにいたドクターコースの学生が,私に向かって,
「Infect. Immun. なら大丈夫だと思う」
と,言ってきた。この雑誌もまあまあではあるが, J. Exp. Med. と比べたらインパクトファクターが低かった(注1)。この学生が,私の研究内容を過小評価していることにカチンと来て,
「Infect. Immun. なら日本にいても書ける。ここまで来て,出すようなジャーナルじゃない!」
と,啖呵を切ったことを覚えている。ともかくも,3年の苦労に見合うだけのジャーナルが欲しかった。晴れて,J. Exp. Med.に自分の論文が掲載されたときは,涙がでるぐらい嬉しかった。
しかし,J. Exp. Med. 投稿に至るまでには,于洋曲折があった。ベルギーから分与された株での実験においても,結果が大きくばらつくことがあった。
それは,スパゲティーバグと呼んでいた,ある細菌の出現であった。
(最終回へ続く)
注1:もちろんジャーナル云々ではなく内容が重要です。まあしかし,当時の私は,生意気でした。。。